執筆者: 布教団HP担当 (7:02 pm)
私のいのちは 私一人のものでなく
お父さんお母さんのものです
そして お父さんお母さんのものだけでなく
それぞれの おじいちゃん おばあちゃんのものです
それは また
ひいおじいちゃん ひいおばあちゃんのもので
もちろん ひいひいおじいちゃん ひいひいおばあちゃんのものでもあります
粗末になんか できますか
不幸になんて なれますか
いのちの根は いま 私に託されているのです
これは、中日新聞に載っていた「いのちの根」という八木春美さんというお方の詩です。
私のいのちの背後には無量のいのちがあります。亡き人を偲びつつ心静かに合掌するとき、いのちの深さ、広さに思いをいたすことができます。
すべての生き物は例外なくいのち終わりますが、我々の平生は死ぬことなど忘れて、より豊かに、より有意義にと願って生活しています。それだけに身近な人の 命終は、家族の愛、医療努力など、人知のすべてが何一つ間に合わなかったことを知らされ、生かされて生きることを噛みしめる、かけがえのないご縁です。
亡き人を偲ぶ心は、楽しかったこと、充分してやれなかったこと、言わなければよかったこと、叱られたこと、悲喜こもごもですが、「亡き人を思う心は、亡き 人に思われている証拠でもある」ともいわれます。浄土真宗の仏事は、すべて、ご恩報謝の営みであり、私を教え導くためのものであることを心したいもので す。
我々は一回限りのこの人生を、悔いなく生きているのでしょうか。
亡き人を敬い仏事を行うのは、仏事には、無常を忘れて暮らしている私をして、人生の厳格な事実に目を覚ませるはたらきがあるからです。
このたびの仏事に「南無阿弥陀仏」と念仏申して、亡き人から呼びかけられている、共なるいのち、永遠なるいのちに目覚めて、ひと時ひと時を、大切に過ごしたいものです。